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2009年5月妙昌寺・経ヶ島弁財天 [川越観光]

2009年5月撮影。川越市三光町、妙昌寺。
2009年5月妙昌寺.jpg
本堂は高台、経ヶ島弁財天と新河岸川はその下。
かなりの高低差があるので、境内には傾斜のきつい坂がある。

妙昌寺説明。
2009年5月妙昌寺解説.jpg
1375年、現在の幸町あたりに開創。
1741年、川越城増築のため現在地に移築。

松平伊豆守信綱による川越城増築及び城下町整備に伴い、場所を移動したお寺がいくつかある。
妙昌寺もそのうちのひとつ。

経ヶ島弁財天。
2009年5月妙昌寺経ヶ島弁財天1.jpg
川越七福神の第七番。

経ヶ島弁財天説明。
2009年5月昌寺経ヶ島弁財天解説.jpg
「室町時代、時の地頭が小石に法華経を書写し、塚を築いて弁財天をまつって守護神としたのが始まり」


経ヶ島弁財天に関する伝説がふたつ。

その1。
川越城築城より前のこと。
妙昌寺の崖下に流れる新河岸川、氾濫するたびに洪水になり大損害。
当時この付近を治めていた地頭は、崖下に護岸工事をして島を作り、弁財天を勧誘。
そこに法華経を石に一字づつ書いたものを埋め、塚を作った。
以後大洪水の被害はなくなったという。

その2。
妙昌寺境内には5反の年貢地があった。
しかしここを耕す者の妻は必ず病死。いつしか妻殺田(めころした)と呼ばれ、誰も近寄らなくなり荒れてしまった。
松平信綱はこれを「迷信」と判断し芹を植えさせたが、それを耕した者の妻まで病死してしまったものだから、この地を妙昌寺に寄進。

寺は村人に頼んで池を作り、真ん中を島にして弁財天社を建立。
この地に古くから伝わる三面の弁天尊像を安置したという。


このふたつの話は時代が違う。

1は建立された理由以外、説明板と話が一致する。
2は「川越素麺」「多濃武雁」にも書かれている話だという。

2の時にはもうあった弁才天に弁天尊像を安置、さらに池を増築、とか?

古地図によると川岸に池、その真ん中に弁才天。
大正~昭和初期の地図だと川は妙昌寺崖下だけ太く、溜め池みたいな感じ。その中に島。

その後の地図では、川はまっすぐ。
島の面影はもうない。
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